「生きる」という権利

 死刑制度の廃止に対する世論が盛り上がらない理由の一つは、日本の場合は死刑に関する情報があまりにも隠されているからだと思う。執行後に名前が明かされるように政策が転換されたが、これは情報開示という意味では多少、ポジティブにとらえられなくもないけれど、大きな評価に値するわけではない。

 死刑執行には、実際に死刑囚がいて、処刑場に連れていく刑務官がいて、処刑を実行する人がいる。どのようになされているのか、死刑囚が実際にどんな気持ちでその日が来るときを待っているのかがもっと明らかになれば、少しは世論がもりあがるのではないかと思うのだが、それは違うだろうか。

 いい本を読んだ。安田好弘『「生きる」という権利:麻原彰晃主任弁護士の手記』(2005年、講談社)。安田さんというのは、私が尊敬している弁護士だ。といってももちろん個人的に知っているわけではない。彼の弁護人としての活動に対して、敬意を払っているという意味である。

 この本を読んで「事実」とは何かということを再考したように思う。事実とは何から構成されているのか。安田さんは、弁護士として一つ一つの事象を検証し、「事実」を精力的に明らかにすることで、弁護人としての責任を果たそうとしてきた人だ、と思う。

 猛烈な勢いで、被告のために証拠づけられた事実を探る。その人の生命が奪われるか否かがかかっているからだ。しかし、弁護人がそれだけの「事実」を探し出してきても、判事が検察の作った物語を信じ込んでしまうことが多い。被告がその犯罪に関わったという証拠を証明するのは検察の責任であるにもかかわらず、十分な証拠が示されないまま物語が鵜呑みにされる可能性があるということ自体、すでに裁判の原則である「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定」が崩れているといえよう。

 そのことを安田さんの本を読んで、再度実感されられたように思う。

 安田さんの本を読んでいてもう一つ分かったのは、裁判官の人柄、思想信条によって、ずいぶん裁判のあり方が変わり、判決が変わるというもの。それはまずい。裁判官も人なのだから、もちろん人柄があって当然なのだが、それにしても量刑に大きな差が出てくるようだと、裁判の公平性は保てない。それから、もう一つ考えたのは、弁護人は検察や判事が不当なことを言い出したら、被告の利益のためにあらゆる法的手段を行使して、その不当な行為に抵抗する必要があるということ。安田さんはそれを実行してきた人だ、と思う。そのことがはっきりと描かれている点においてもこの本はすばらしいと思う。そのために、裁判の妨害をしたなどと的外れな批判を受けることもあるだろう。しかし、公平さを踏みにじっているのは判事の方なのだから、公平な裁判を妨害したとして、あるいは公平な裁判をしようとしない(明らかに日本国憲法違反)として批判されるべきは、判事の方にあるはずだ。

 闘う弁護士などといわれる安田さんだが、本来弁護士とはかくあるべきで、「闘う」という修辞句が使われること自体、この社会の異常性を物語っているように思ったのは私だけだろうか。

刑場に消ゆ

 今日の大阪も雪。寒いそう。

 矢貫隆『刑場に消ゆ:点訳死刑囚二宮邦彦の罪と罰』(文藝春秋、2007年)を読んだ。この本を誰かが勧めてくれたわけでも、何かの本で参考文献として挙げられていたわけではない。BK1で本探しをしたときに、たまたま見つかっただけだった。

 二宮邦彦さんは、1973年に処刑された。強盗殺人犯として死刑判決を受け、死刑判決確定後から10年以上してから処刑されたという。拘置所のなかで彼は点訳を続け、1500冊もの書物の点訳を終えたという。

 彼は無罪を訴えていた人ではない。犯罪行為を認めていたが、裁判での事実認定と判決には不満を持っていたようだ。彼の主張が「事実」だとすれば、死刑判決を受けるというのは解せない。共犯者は無期懲役の判決を受けたが、主犯とされた彼は死刑判決だった。裁判で事実認定が正確に行われたのか。もし行われていたとしたら、処刑されることはなく、現在でも生きている存在ではなかったのか。

 私はこの本を読んで、上記のことを考えていた。検察による物語、裁判官の判断は一人の命を死に追い込む。生と死(無期懲役と死刑)は言葉にはできないほど大きな違いがある。

 容疑者は逮捕されると圧倒的に弱い立場に置かれる。圧倒的な権力者によって命を握られることになるからだ。生きるか死ぬかは、それらの権力者次第だ。一度、間違った「事実」が認定されてしまうと、それを覆すのは不可能に近いほど難しい。再審への道がどれほど難しいものであるかを考えると、無念のままに死を強要された人々は多いだろう。間違った「事実」認定の末の死刑判決は、殺人と同じだ。検察、裁判官はそのことを心しておかなければならん。

 この本を読んでいて(他の本もそうだが)思ったのは、死刑囚の心の安定のために「宗教」が使われているのでは?ということだった。処刑のたけに心を安定させ、落ち着いたときに処刑する。そのために宗教が使われていやしないか?それはあまりにも都合よくないか?拘置所を訪問する教誨師がいる。それ自体が悪いのではない。目的が何であるのかを整理しておかなければ、自分の意志とは無関係のところで処刑の準備に関わることになりはしまいか?

 二宮さんはクリスチャンだった。本で引用されている本を読んでも、非常に熱心な信徒さんだったことが分かる。それは自分の選択だからもちろん問題はない。彼の点訳作業を支えた人々も熱心な信徒さんだ。彼の物語をかくして読むことができるのも、このような方々のおかげだと思う。しかし、それと上記のことは違う。

 この本はかなりお薦めの書だ。買ってよかったし、読んでよかった。単純に二宮さんを美化して描いているわけではない。二宮さんが生きた拘置所での生活を可能な限り「再現」し、紡いだ物語である、と思う。死刑を受けた人々が皆、二宮さんのような拘置所生活を送るわけではない。しかし、二宮さんがそうだったように、多くの場合は死刑をなんとか回避しようとするはずだ。元刑務官の坂本さんも書いておられたが、冤罪だと思われるケースは確実にある。しかし、死刑が確定してからは、それを回避することは権力の壁が厚すぎて非常に難しい。

元刑務官が明かす 死刑のすべて

 坂本敏夫『元刑務官が明かす 死刑のすべて』(文春文庫、2006年)を読んだ。最近はとにかく片っぱしから死刑関係の本を読もうとしている。死刑判決が連発していることと執行が続いていることを憂慮している。死刑制度に対して、とにかく黙っていたらあかんという気持ちになっている。そのためにはもっと情報を知らないと自分の頭のなかでこの問題をどう見るのかという整理ができない。

 学部生のときに何冊かは死刑関係の本を読んだことがある。当時、死刑制度の問題に関心を寄せていたんだろうなあ。でも、その内容は頭から完全に抜けている。恥ずかしい。

 今回読んだ本は、刑務官として、実際に執行にもたずさわったことがある坂本さんの視点から死刑がどのようなものなのか、確定死刑囚がどんな生活を送っているのか・送らされているのかが描かれていた。刑務官や元死刑囚として獄中にいたことがある人以外、実態を知ることは難しい。そういう意味においても、この本は読む価値がある。また、執行には、それに関わる刑務官がいる、つまり人の生命をうばう作業を仕事としてやらされている人たちがいるということも考えさせてくれるという意味でも、読んでみるべきだと思う。私たちはそのことをともすれば忘れがちではないか。法務大臣が直接、執行に関わるわけではないのだから、それを執行する人がいるというのは当然のことなのに。

 坂本さんは死刑制度の存置には反対していないけれど、執行には反対している。それは刑務官という仕事で実際の状況を知ったことから出てきた彼なりの結論なんだろう。でも、私はその論理には納得できない。実際に執行が停止されていたとしても、制度が残っている限り、執行の可能性があるからだ。韓国は事実上の執行停止国となった。それはそれで喜ばしいことだけど、手放しで喜んでいるわけにはいかない。制度というものが残っていることの危険性を考えてしまうからだ。

 今は、他の死刑関係の本を読んでいる。とにかく今はできるだけ多くの書にあって、自分なりの考えを固めていきたい。

プライド 共生への道

 李実根『プライド 共生への道:私とヒロシマ』(汐文社、2006年)を読んだ。先日、イタリアとパレスチナから音楽家が来日したときに広島に連れて行った。そのときに、平和祈念館を訪問し、そこの売店で見つけた本。朝鮮人被ばく者のその後の人生を描いた本を読んでみたかったこともあり、本書を目にしたときにそのまま買ってしまった。

 もちろん、李さんの人生はヒロシマで被ばくした3万人の朝鮮人を代表するものではない。それぞれの被ばく者が皆、異なる人生を歩んできている。広島に住んでいる人もいれば、朝鮮半島に戻っている人もいる。住んでいる場所によって生活やその後のケアの状況は随分異なるだろう。

 李さんは日本の植民地時代に軍国少年として洗脳教育を受け−その過程では朝鮮人差別を受けているのだが−、最後は広島で入市被ばくした。日本の敗戦後は中国地方を拠点に、日本の敗戦後に在日朝鮮人として政治活動を始めた。米国による朝鮮戦争に反対するビラをまいたことから逮捕され、そのなかでさまざまな罪をでっちあげられたりしたことなどから、政治犯として長い獄中生活を送った。

 ライフ・ヒストリーを読むことで、社会に存在する不正義の「実態」を垣間見ることができることがある。まさしく李さんの本はそのことを実感させるものだった。私は同じ社会に住んでいる在日朝鮮人が置かれてきた状況をどれほど「理解」しようとしてきただろうか。日本の植民地支配から「解放」された朝鮮の人々が、南北分断に巻き込まれてきたことを私はどれほど関心をもって向いあってきたのか。あるいは核兵器のことを考えるときに、広島や長崎で被ばくした朝鮮半島出身者のことを少しでも思い描くことがあっただろうか。平和公園朝鮮人被ばく者の碑の前で追悼することがあっても、心から真剣に考えてきたとは到底いえない。

 そのことを再度考えさせてくれた本が『プライド 共生への道:私とヒロシマ』だった。今度は被ばくした朝鮮半島の女性たちのライフ・ヒストリーを読んでみたい。所属している某学会の分科会で彼女たちのライフ・ヒストリーの聞き取りをされている方の報告を聞いたことがあるのと、このブログでも紹介した平井和子さんの本で少しだけ読んだことがある。もっと読みたい。李さんが書かれた「白いチョゴリ被爆者」(1979年)を図書館か古本屋あたりで探して、読んでみよう。

狼たちの月

 フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(ヴィレッジブックス、2007年)を読んだ。毎日新聞に書評が掲載されており、内容にひかれて即購読。同書は、スペイン市民戦争中に反フランコ側で闘った男たちに対する厳しい追跡と弾圧の姿をアストゥリアスを舞台に追われる者の視点から描いた作品だ。

 市民戦争終結後から長い月日を経ても、執拗に追われる4人の男たち。治安警備隊員による家族に対する弾圧、村人の冷たい眼差し。山での厳しい逃亡生活のなかで、圧倒的に孤独な闘いを強いられている男たちには、故郷で安心して生活を送ることなど果てしなく遠い夢となってしまった。仲間が次々と殺されるなか、最後に残されたアンヘルはどうなるのか。著者はそれを私たちの想像力にゆだねている。

 絶望の小説。それが、同書だった。

 3月にはスペインに行く計画を立てている。私の英雄が眠る大地で、ファシストたちに命を奪われた人々のことを静かに考えたい。

 

子どもたちと話すイスラームってなに?

 イスラーム文化圏研究を教えるにあたって、イスラームの簡単な概説書というか、教科書を探していた。論文用の資料ではなくて、簡単なもの。アラブ、イスラーム研究を専攻している学生さん用の講義ではなくて、リベラル・アーツの大学で担当するイスラーム文化圏研究で参考文献、教科書として揚げることができるものという意味。

 いろんな概説書がある。そのなかで入門の入門書として選びたいのが、タハール・ベン・ジェルーン『子どもたちと話すイスラームってなに?』(2002年、現代企画室)。これはホン方に読みやすい本だ。最近の学生さんは、「対テロ戦争」の影響を受けて、イスラームをとても怖い宗教と思いこんでいる傾向がある。まずはその誤解に疑問を持たせることが大切。そういう点ですぐれているのが、同書だと思う。読むのが早い学生さんは、おそらく一日か二日でさっさと読めてしまう本。で、ここで基礎の基礎ともいうべき一般的な知識を身につけ、次の概説書というか入門書にいけばいいのでは、と思っている。

 授業中にこの本を見せると、「あ、この本だったらいけそうだよ」みたいな声が聞こえた。いきなり分厚くて、難しそうという印象を与える本は、読んでもらえない可能性が高いからなあ。徐々に徐々に内容を深めていくのが教育。

 著者のタハール・ベン・ジェルーンは、この本を9.11の事件とムスリムの問題から始めている。これは重要だ。あの事件はその後のムスリムのイメージを悪くし、パレスチナアフガニスタンイラクへの軍事攻撃を正当化するものへとつながった。その意味でも、同書は、新聞報道やテレビのニュース等で受けつけられたイスラームムスリムのイメージや誤解を払拭ことにつながる一つのカギとなると思う。もちろんこれだけでは参考文献として不十分なので、あくまで入門書の入門書やね。

 

 

死刑

 森達也『死刑』(朝日出版社、2008年)を読んだ。毎日新聞の広告で目にしたときに、「買わなければ」と思い、そのあとたまたま本屋に行ったときに見かけたので即購入。

 彼は法律家でも、死刑廃止運動をしている人でもない。でも、死刑制度に向き合い、さまざまな立場の人と話を重ねて、自分なりの答えを出した。本書はその記録。

 最後にははっきりとしたスタンスを示した。人を説得しようとするのではなく、自分はどうだという意見表明。「死刑を維持しなければ理由がわからない」(308頁)と。

 「冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
  多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
  反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
  再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。」(310頁)

 上記の4行に私は感情的に同意する。私は人が殺されるのは嫌だ。それが国家の枠組みにおける制度、すなわち合法的なものであっても。

 死刑関係の本をここのところ何冊か読んで思ったのは、「死刑廃止が必要であることを、論理的に、科学的に説明できるようにしよう」ということだった。でも、この本を読んだときに、いや死刑廃止に関する自分の意見を構築するためには、「科学的」「論理的」、そして「感情的」なものが必要だということを感じた。

 この本のなかで、光氏の母子殺人事件の本村さんからの手紙の一部が紹介されていた。メディア報道だと、彼があたかも「被告に死刑を求める遺族」の代表的な人のようなイメージを抱きがちだ。でも、それは罠だったということに、私はその手紙の一部を読んで思ったのだった。手紙から受けた印象だと、本村さんは、命を大切だと感じている人だ、と思う。その彼が妻と子どもを殺された立場として、命の大切さと主張との間に見える「矛盾」らしきものに苦しんでいる。そんな感じを受ける手紙だった。「死刑については、悩みに悩みを重ねています」(312頁)と書かれている。被告に対して死刑が妥当だと考えているが、そこには苦悩がある。私はこの手紙を読むまで、本村さんという人がどんな人か分からなかった。ただ、「妻子を殺され、大きな大きな痛みと苦しみを感じているだろう」と、下手な「同情」心でしか見ていなかったような気がする。苦悩のなかにある、さまざまな複雑な感情を私は無視していたのではなかったか。

 それでも、私は森さんが書かれたスタンスに同意する。人の命は何よりも大切だ。絶対に帰ってこないのが、奪われた命だ。それが奪われるということは、何があっても嫌なのだ。命が大切だからこそ、私自身は人の命を奪われるあらゆる行為に反対したい。