「自分の国」を問いつづけて

 崔善愛さんの『「自分の国」を問いつづけて:ある指紋押捺拒否の波紋』(岩波ブックレット、2000年)を読んだ。非常勤に向かう電車のなかで、その内容に夢中になる。指紋押捺というあまりに屈辱に満ちた「政策」を押し付けられて、どれほど多くの外国人が不快な思いをしてきたことか。「不快」なんて言葉では到底表わすことができないか。1999年に指紋押捺制度が全廃されるまで(永住者の指紋押捺は1992年に廃止)、この国では在住する外国人を「指紋」によって管理してきたのだ。昨年から、日本政府は来日する短期滞在の外国人の指紋を入国の際に取り始めた。とんでもない。

 指紋押捺を拒否したことで、「犯罪」を犯したとみなされ、起訴されてきた人々。二重の抑圧。崔さんもそんな一人だった。崔さんの裁判は、日本社会の人権意識を見る上で十分すぎるほどの判断材料になる。

 一昨日だったか、外国人登録制度をなくし、日本国籍者と同様に住民基本台帳にまとめるという案を総務省法務省が検討しているという記事が新聞に掲載されていた。外国人登録制度がなくなるとしても、悪名高き住民基本台帳に組み込まれるということは、本質的に何も変わっていないことと同じではないのか?

 崔さんが書かれていた「人間より法律のほうが尊いものであるかのようだった」(5頁)を目にしたとき、法律を専攻してきた私の胸はきゅっと締め付けられるような感覚に陥った。同時に法律を学んできたものとして、「恥ずかしい」と思ったのだった。

 

死者はまた闘う

 武田和夫『死者はまた闘う:永山則夫裁判の真相と死刑制度』(明石書店、2007年)。実にいい本だ。今年第一のヒット(ってまだ一月だけどね)。

 「犯罪」というのは、どのように形成されているものなのか。動機と結果だけではない。そこには必ずや原因がある。そのことを再認識させてくれたのが、この本だった。結果に対する責任を有しているのは、その犯罪を行った者だけなのか。原因を追及することがなければ、その責任は犯罪を行った者だけに負わせることになる。その究極的な形として出されるのが死刑、である。

 犯罪を犯した者がその罪に向き合うこと(=反省)。そしてその者たちとともに生きる社会を構築していくこと。死刑制度に反対するときの根底にすえられなければならないのは、こういう思想なのではないか。武田さんたちが行ってきた「反省=共立運動」というのは、それを実現するための運動だった(過去形で書いていいのか分からないけど)のだと思う。

 この本のなかにすでに処刑された木村修治さんの文章が紹介されていた。心に沁みいる。「死刑は差別です。人間であることを具体的にしかも完全に否定するという、他に類例を見ない決定的な差別です。」(183頁)。

 死刑は差別なのだ。人間であることを否定することなど、誰もできない。国家権力は法律を制定する力を有している。裁判所は法を使って(解釈して)、人を裁く。これもまた国家権力だ。人間であることを否定する判決を下すということ自体が差別であり、巨大な国家権力の行使に他ならない。

 永山さんや木村さんが遺した思想を読みたい。そして胸に刻んでいきたい。そう思わせたのがこの本だった。

増補新版 日本死刑白書

 お正月に実家に戻ったとき、前坂俊之『増補版 日本死刑白書』(三一書房、1990年)を見つけた。何気なく取り出して読む始めるとぐいぐい進む。内容に完全にひきつけられてしまった。この本は18年も前に書かれたものだが、今でも十分に対応しうる死刑廃止論を提供している。

 なぜ死刑がいけないのか。冤罪の可能性が挙げられることが多いが、それだけでなく、他の論理も再度考えてみたかった。教育としての刑罰、残酷性と人間性、死刑囚の育った環境や学歴、どのような人が死刑判決を受けてきたのか、初犯か否か、死刑囚となること、死刑囚の家族など、さまざまな視点から死刑廃止を訴えることができるはず。それを分かりやすく説明していたのが本書だ。

 イスラーム諸国、イスラームと死刑に関しては、もう少し学びが必要だが、それを除くと本書はとても貴重だ。下手な刑法関係の本を読むよりも、ずっとためになる。

 日本社会の犯罪率は増加していない。横ばい状態。なのに、人々は犯罪が増えていると思っている。メディアの報道は事件関係に集中しているために、人々は犯罪が増えていると考えている。

 だから死刑は必要だと?犯罪率があがっていないのは、死刑があるからだと?それは違う。死刑制度はずっとあるのだから、そんな論理は成り立たん。

 殺人を禁止している国が、死刑制度を有していることで国家による殺人を認めるという行為は実に矛盾している。それは戦争を正当化することにもつながっている。国家が認めたから、あるいは国家が正当だと考えるから、戦争は認められる、というのか。そう、戦争と死刑制度はつながっているのだ。同じ論理じゃないか。国家によるお墨付きという点でにおいて。

 年が明けてから多くの本を注文した。死刑関係も多い。死刑制度に反対する論理を構築していくために、とりあえずは本を読み続けよう。

風の影

 カルロス・ルイス・サフォン「風の影」(集英社文庫、2006年)。なんでこの本を買ったのかなあ。スペイン内戦時のことも扱っていると小耳に挟んだからか。小説としてはそれなりにおもしろい。さすがに評判になっただけのことはある。でも・・・。なんか釈然としない。「忘れられない本の墓場」にあった一冊の本「風の影」の作者の過去を追跡していくことでストーリーが展開していく。ミステリーといえばミステリー。

 小説にでてくる「風の影」の作者フリアン・カラックスの過去が内戦とどうつながっているのか、もう少し政治的なつながりがあるのかと期待しすぎたのがまずかったんだろうなあ。たまに小説の中で出てくる共和国軍に対するイメージに比べると、アナーキストに対する表現は少々ひどすぎないか。たぶん、そのことが私の心証を悪くしちゃったんだろうなあ。

 主人公の少年とフリアンの恋愛が似ているのも、なんだかベタすぎる。「忘れられない本の墓場」と古本屋の設定はとてもいいんだけどなあ。

 

イスラエル×ウクライナ紀行

 佐藤康彦『イスラエル×ウクライナ紀行:東欧ユダヤ人の跡をたずねて』(彩流社、1997年)を読んだ。イスラエル関係のことを扱った本をついつい色眼鏡で読みがちで、実はこの本も、最初は「どうせシオニズム観に沿った本なんだろうなあ」と思って読み始めた。でも、そう簡単にはいえない紀行というのが、読み終わっての感想。

 この本は別にシオニズムを正面から肯定しようという気持ちで書かれた本ではない。佐藤先生は、ヘルツルの著書の翻訳者。イスラエルでは中央シオニスト文書館で研究員を短期間しながら、ヘルツルの翻訳をしていた。シオニズムそのものの考え方にそれほど否定的ではないかもしれないが、少なくとも差別や虐殺を経験した人々が、「いま、先祖の地だとはいえパレスチナ人たちが平穏に暮らしていた土地にやって来て、武器をもって先住民や他の民族を追い払おうとしているとは、なんという歴史の皮肉であろうか」(35頁)と書かれていることから、シオニズムの帰結として、一体いかなることがパレスチナ人の身の上に起きたのかということを認識している。「先祖の地」か否かは別として、このくだりがいわんとしていることには、賛同する。「イスラエル人」と「日本人」という立場の差はあるものの、同じことを言っているイスラエル人にあったことがある。「ホロコーストというのはけっして忘れることができない。それなのに、今、それと同じことを私たちはパレスチナ人にしている。」彼は時間をかけて、反シオニズムの立場をとるイスラエル人となり、イスラエル当局によるパレスチナ人の家屋の破壊に反対する平和活動に参加している。

 ドイツ語をかつてネイティブとして話していたある女性がいまではけっしてドイツ語を使わないでいることを紹介している下りで、「ドイツ語は、彼女にとって悲しさと懐かしさの言葉であり、そして同時に憎しみの言葉なのだ。外国語を話す人にとって、その言葉がこんなに激しい思いを呼び起こすなどというのは、われわれ日本人の場合はほとんどあり得ないことではなかろうか」あるが、はたしてそうなんだろうか。いや、そうなのかもしれない。私を含む「日本人」(って誰のことを指すのかという問題もあるけれど)は侵略する立場にあり続けている以上、そういう経験はしない。しかし、私たちのまわりにはいる。そのような経験をしてきた人々が。かつて、日本の植民地政策は被支配地の言語や文化を否定し、日本語や日本名を強要してきた。日本語というのは、「憎しみの言葉」。私たちが認識していないだけで、あるいは知りたくないだけで、そう思っている人々が私たちの近くにいるはずだ。

 この本の後半は、前半のイスラエル滞在の報告記よりも、さらに読み応えがあった。ウクライナモルドバなどユダヤ人の住民が多数住んでいた地域の変遷を知ることができたからだ。移動を強いられるユダヤ人の歴史。ホロコーストイスラエル国家の誕生を経て、ほとんど消滅しているイディッシュ語。言語は現実的に消える可能性を有しているものであることをあらためて、認識すると同時に、非常に悲しく思った。

たんば色の覚書:私たちの日常

 この一ヵ月の怒涛のような生活。なんとかスケジュールをやりきったので、ほっとしているところ。論文も書き終わったし。本を読んでいなかったわけではなかった。というか、かなりの本は読んでる。私は忙しくなると、日々の日程をこなすのにいっぱいなのに、本を読んでしまうことがある。読書は現実逃避。そんな私を見ながら、Mはそんなこと言ってた。医者がいうことだから、あながち間違っていないかも。

 この間、とてもいい本に出会った。そのいくつかをあげてみる。
1. 中村尚樹『名前を探る旅:ヒロシマナガサキの絆』(石風社、2000年)
2. 佐藤康彦『イスラエル×ウクライナ:東欧ユダヤ人の跡とたずねて』(彩流社、1997年)
3. ミヒャエル・デーゲン『みんなが殺人者ではなかった:戦時下ベルリン・ユダヤ人は母子  を救った人々』(影書房、2005年)
4. 辺見庸『たんば色の覚書:私たちの日常』(毎日新聞社、2007年)

 トンデモ本は、持田鋼一郎『ユダヤの民と約束の土地イスラエル感傷紀行』(河出書房新社、2000年)。古本屋で買った本。とても定価を払う気になんてならない。でも、批判材料を得るためには一つの参考になるか。研究書ではないけれど。

 今日は、辺見さんの「たんば色の覚書」について、忘れないうちにコメントを書いておきたい。

 先日、死刑が執行された。夕刊を読んで愕然とすると同時に、私のなかに深い怒りが込み上げてきた。文字通り、気分が悪くなった。憲法13条が規定する「幸福権の追求」の権利を阻害されたように感じたのは、私だけではあるまい。私は死刑制度が一刻も早くなくなってほしいと思っている。でも、この社会はその逆に進んでいる。ここまで死刑判決が簡単に出るような社会を私は17年前、大学に入学した当時考えもしなかった。あの頃は、法学に一定の希望を持っていたから(今でも法学が好きであることは変わりないけれど)。

 辺見さんの本は、死刑というものの残酷性を激しく、リアルに追及している。どれほど残酷なものなのか、「死刑判決」を受けていない、安全圏にいる私(たち)には想像できないこと。先日の死刑のニュースが流れたあとBBCの記事を読むと、非常にクリティカルに報道していた。日本の処刑は、その日の朝になるまで本人たちには知らされない。その日の朝、突然、迎がくる。だから、毎日、毎日、明日かも知れないと思いながら、生きることを余儀なくされる。これは究極的な心理的拷問。国際的な人権基準からすると、大きく後退している。では、米国のように、いつ執行されるのかということを本人が知っていればいいのか。そんなことはない。そもそも死刑というもの自体が残酷な刑罰だから、それを認めるわけにはいかない。辺見さんの本は、死刑だけを扱っているわけではない。他者の痛みを想像しない私たちの冷酷さを問題化しているなかで、死刑を大きく取り上げている。たとえ、自分が痛いと思っても、その痛みを他者が想像しようとするわけではない。また、何かを痛いと感じたことがある人が、必ずしも他の人の痛みを想像するわけでもない。人間は、理性的な存在とはいいがたいからだ。

 辺見さんの本のなかの「私たちの日常−<決して有用でないもの>への視線」の冒頭は、私の友人の話から始まる。この章は京都で行われた講演録。そのとき、彼女は生なる存在だったら、おそらく参加していた講演会。でも、彼女はその前に逝ってしまった。彼女は、辺見さんの点訳者だった。彼女が元気だったら、この本も点訳していたかもしれない。

 彼女を失った今年があと二週間ほどで終わる。教員になって初めて、授業中に大泣きして、授業ができなくなった年があと少しで終わるとは。あれからすでに何ヵ月も経った。皮肉にも、今日、私は彼女の追悼文をあるNGOのニューズレターに書くことになっている。父を亡くして以来、最も悲しい出来事を文章化できるだろうか。

 彼女の死は明らかに私や共通の友人たちに痛みをもたらした。それは二度と彼女に会えないことの悲しみからくる痛み。その痛みを辺見さんも共有している、のだと私は思う。でも、それは私たちよりもはるかに大きなものかもしれない。自身が病気で苦しんでいる、のだから。その痛みを私はどこまで想像できるのか。
 
 

イラク:わが祖国に帰る日 反体制派の証言

 ちょっと前に読み終わった本に、勝又郁子『イラク:わが祖国に帰る日 反体制派の証言』(NHK出版、2003年)がある。特に紹介すべきところがある本ではないけれど、一つのものの見方としては参考になる。特にフセイン政権崩壊に至るまでの長い期間に、海外在住のイラク人がどのように動いてきたのか(このような人々の意見はもちろん一枚岩ではない)の情報の一端を読むことができるという意味において(それがこの本の目的とするところか)。

 クリントン政権時代のイラク解放法とイラク戦争占領政策との結びつきを見ることもできた。また、フセイン時代の反体制派に対する米国政府の態度が一定していなかった分、それらの人々が翻弄されてきたことなども察することができた。イラクと米国。非常に長い関係がある。湾岸戦争以降、着々とフセイン政権崩壊に向けて動いてきた米国。それがイラク戦争であり、その後の占領政策に続いている。実に恐ろしい。