たんば色の覚書:私たちの日常

 この一ヵ月の怒涛のような生活。なんとかスケジュールをやりきったので、ほっとしているところ。論文も書き終わったし。本を読んでいなかったわけではなかった。というか、かなりの本は読んでる。私は忙しくなると、日々の日程をこなすのにいっぱいなのに、本を読んでしまうことがある。読書は現実逃避。そんな私を見ながら、Mはそんなこと言ってた。医者がいうことだから、あながち間違っていないかも。

 この間、とてもいい本に出会った。そのいくつかをあげてみる。
1. 中村尚樹『名前を探る旅:ヒロシマナガサキの絆』(石風社、2000年)
2. 佐藤康彦『イスラエル×ウクライナ:東欧ユダヤ人の跡とたずねて』(彩流社、1997年)
3. ミヒャエル・デーゲン『みんなが殺人者ではなかった:戦時下ベルリン・ユダヤ人は母子  を救った人々』(影書房、2005年)
4. 辺見庸『たんば色の覚書:私たちの日常』(毎日新聞社、2007年)

 トンデモ本は、持田鋼一郎『ユダヤの民と約束の土地イスラエル感傷紀行』(河出書房新社、2000年)。古本屋で買った本。とても定価を払う気になんてならない。でも、批判材料を得るためには一つの参考になるか。研究書ではないけれど。

 今日は、辺見さんの「たんば色の覚書」について、忘れないうちにコメントを書いておきたい。

 先日、死刑が執行された。夕刊を読んで愕然とすると同時に、私のなかに深い怒りが込み上げてきた。文字通り、気分が悪くなった。憲法13条が規定する「幸福権の追求」の権利を阻害されたように感じたのは、私だけではあるまい。私は死刑制度が一刻も早くなくなってほしいと思っている。でも、この社会はその逆に進んでいる。ここまで死刑判決が簡単に出るような社会を私は17年前、大学に入学した当時考えもしなかった。あの頃は、法学に一定の希望を持っていたから(今でも法学が好きであることは変わりないけれど)。

 辺見さんの本は、死刑というものの残酷性を激しく、リアルに追及している。どれほど残酷なものなのか、「死刑判決」を受けていない、安全圏にいる私(たち)には想像できないこと。先日の死刑のニュースが流れたあとBBCの記事を読むと、非常にクリティカルに報道していた。日本の処刑は、その日の朝になるまで本人たちには知らされない。その日の朝、突然、迎がくる。だから、毎日、毎日、明日かも知れないと思いながら、生きることを余儀なくされる。これは究極的な心理的拷問。国際的な人権基準からすると、大きく後退している。では、米国のように、いつ執行されるのかということを本人が知っていればいいのか。そんなことはない。そもそも死刑というもの自体が残酷な刑罰だから、それを認めるわけにはいかない。辺見さんの本は、死刑だけを扱っているわけではない。他者の痛みを想像しない私たちの冷酷さを問題化しているなかで、死刑を大きく取り上げている。たとえ、自分が痛いと思っても、その痛みを他者が想像しようとするわけではない。また、何かを痛いと感じたことがある人が、必ずしも他の人の痛みを想像するわけでもない。人間は、理性的な存在とはいいがたいからだ。

 辺見さんの本のなかの「私たちの日常−<決して有用でないもの>への視線」の冒頭は、私の友人の話から始まる。この章は京都で行われた講演録。そのとき、彼女は生なる存在だったら、おそらく参加していた講演会。でも、彼女はその前に逝ってしまった。彼女は、辺見さんの点訳者だった。彼女が元気だったら、この本も点訳していたかもしれない。

 彼女を失った今年があと二週間ほどで終わる。教員になって初めて、授業中に大泣きして、授業ができなくなった年があと少しで終わるとは。あれからすでに何ヵ月も経った。皮肉にも、今日、私は彼女の追悼文をあるNGOのニューズレターに書くことになっている。父を亡くして以来、最も悲しい出来事を文章化できるだろうか。

 彼女の死は明らかに私や共通の友人たちに痛みをもたらした。それは二度と彼女に会えないことの悲しみからくる痛み。その痛みを辺見さんも共有している、のだと私は思う。でも、それは私たちよりもはるかに大きなものかもしれない。自身が病気で苦しんでいる、のだから。その痛みを私はどこまで想像できるのか。