イスラエル×ウクライナ紀行

 佐藤康彦『イスラエル×ウクライナ紀行:東欧ユダヤ人の跡をたずねて』(彩流社、1997年)を読んだ。イスラエル関係のことを扱った本をついつい色眼鏡で読みがちで、実はこの本も、最初は「どうせシオニズム観に沿った本なんだろうなあ」と思って読み始めた。でも、そう簡単にはいえない紀行というのが、読み終わっての感想。

 この本は別にシオニズムを正面から肯定しようという気持ちで書かれた本ではない。佐藤先生は、ヘルツルの著書の翻訳者。イスラエルでは中央シオニスト文書館で研究員を短期間しながら、ヘルツルの翻訳をしていた。シオニズムそのものの考え方にそれほど否定的ではないかもしれないが、少なくとも差別や虐殺を経験した人々が、「いま、先祖の地だとはいえパレスチナ人たちが平穏に暮らしていた土地にやって来て、武器をもって先住民や他の民族を追い払おうとしているとは、なんという歴史の皮肉であろうか」(35頁)と書かれていることから、シオニズムの帰結として、一体いかなることがパレスチナ人の身の上に起きたのかということを認識している。「先祖の地」か否かは別として、このくだりがいわんとしていることには、賛同する。「イスラエル人」と「日本人」という立場の差はあるものの、同じことを言っているイスラエル人にあったことがある。「ホロコーストというのはけっして忘れることができない。それなのに、今、それと同じことを私たちはパレスチナ人にしている。」彼は時間をかけて、反シオニズムの立場をとるイスラエル人となり、イスラエル当局によるパレスチナ人の家屋の破壊に反対する平和活動に参加している。

 ドイツ語をかつてネイティブとして話していたある女性がいまではけっしてドイツ語を使わないでいることを紹介している下りで、「ドイツ語は、彼女にとって悲しさと懐かしさの言葉であり、そして同時に憎しみの言葉なのだ。外国語を話す人にとって、その言葉がこんなに激しい思いを呼び起こすなどというのは、われわれ日本人の場合はほとんどあり得ないことではなかろうか」あるが、はたしてそうなんだろうか。いや、そうなのかもしれない。私を含む「日本人」(って誰のことを指すのかという問題もあるけれど)は侵略する立場にあり続けている以上、そういう経験はしない。しかし、私たちのまわりにはいる。そのような経験をしてきた人々が。かつて、日本の植民地政策は被支配地の言語や文化を否定し、日本語や日本名を強要してきた。日本語というのは、「憎しみの言葉」。私たちが認識していないだけで、あるいは知りたくないだけで、そう思っている人々が私たちの近くにいるはずだ。

 この本の後半は、前半のイスラエル滞在の報告記よりも、さらに読み応えがあった。ウクライナモルドバなどユダヤ人の住民が多数住んでいた地域の変遷を知ることができたからだ。移動を強いられるユダヤ人の歴史。ホロコーストイスラエル国家の誕生を経て、ほとんど消滅しているイディッシュ語。言語は現実的に消える可能性を有しているものであることをあらためて、認識すると同時に、非常に悲しく思った。