死刑

 森達也『死刑』(朝日出版社、2008年)を読んだ。毎日新聞の広告で目にしたときに、「買わなければ」と思い、そのあとたまたま本屋に行ったときに見かけたので即購入。

 彼は法律家でも、死刑廃止運動をしている人でもない。でも、死刑制度に向き合い、さまざまな立場の人と話を重ねて、自分なりの答えを出した。本書はその記録。

 最後にははっきりとしたスタンスを示した。人を説得しようとするのではなく、自分はどうだという意見表明。「死刑を維持しなければ理由がわからない」(308頁)と。

 「冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
  多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
  反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
  再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。」(310頁)

 上記の4行に私は感情的に同意する。私は人が殺されるのは嫌だ。それが国家の枠組みにおける制度、すなわち合法的なものであっても。

 死刑関係の本をここのところ何冊か読んで思ったのは、「死刑廃止が必要であることを、論理的に、科学的に説明できるようにしよう」ということだった。でも、この本を読んだときに、いや死刑廃止に関する自分の意見を構築するためには、「科学的」「論理的」、そして「感情的」なものが必要だということを感じた。

 この本のなかで、光氏の母子殺人事件の本村さんからの手紙の一部が紹介されていた。メディア報道だと、彼があたかも「被告に死刑を求める遺族」の代表的な人のようなイメージを抱きがちだ。でも、それは罠だったということに、私はその手紙の一部を読んで思ったのだった。手紙から受けた印象だと、本村さんは、命を大切だと感じている人だ、と思う。その彼が妻と子どもを殺された立場として、命の大切さと主張との間に見える「矛盾」らしきものに苦しんでいる。そんな感じを受ける手紙だった。「死刑については、悩みに悩みを重ねています」(312頁)と書かれている。被告に対して死刑が妥当だと考えているが、そこには苦悩がある。私はこの手紙を読むまで、本村さんという人がどんな人か分からなかった。ただ、「妻子を殺され、大きな大きな痛みと苦しみを感じているだろう」と、下手な「同情」心でしか見ていなかったような気がする。苦悩のなかにある、さまざまな複雑な感情を私は無視していたのではなかったか。

 それでも、私は森さんが書かれたスタンスに同意する。人の命は何よりも大切だ。絶対に帰ってこないのが、奪われた命だ。それが奪われるということは、何があっても嫌なのだ。命が大切だからこそ、私自身は人の命を奪われるあらゆる行為に反対したい。