刑場に消ゆ

 今日の大阪も雪。寒いそう。

 矢貫隆『刑場に消ゆ:点訳死刑囚二宮邦彦の罪と罰』(文藝春秋、2007年)を読んだ。この本を誰かが勧めてくれたわけでも、何かの本で参考文献として挙げられていたわけではない。BK1で本探しをしたときに、たまたま見つかっただけだった。

 二宮邦彦さんは、1973年に処刑された。強盗殺人犯として死刑判決を受け、死刑判決確定後から10年以上してから処刑されたという。拘置所のなかで彼は点訳を続け、1500冊もの書物の点訳を終えたという。

 彼は無罪を訴えていた人ではない。犯罪行為を認めていたが、裁判での事実認定と判決には不満を持っていたようだ。彼の主張が「事実」だとすれば、死刑判決を受けるというのは解せない。共犯者は無期懲役の判決を受けたが、主犯とされた彼は死刑判決だった。裁判で事実認定が正確に行われたのか。もし行われていたとしたら、処刑されることはなく、現在でも生きている存在ではなかったのか。

 私はこの本を読んで、上記のことを考えていた。検察による物語、裁判官の判断は一人の命を死に追い込む。生と死(無期懲役と死刑)は言葉にはできないほど大きな違いがある。

 容疑者は逮捕されると圧倒的に弱い立場に置かれる。圧倒的な権力者によって命を握られることになるからだ。生きるか死ぬかは、それらの権力者次第だ。一度、間違った「事実」が認定されてしまうと、それを覆すのは不可能に近いほど難しい。再審への道がどれほど難しいものであるかを考えると、無念のままに死を強要された人々は多いだろう。間違った「事実」認定の末の死刑判決は、殺人と同じだ。検察、裁判官はそのことを心しておかなければならん。

 この本を読んでいて(他の本もそうだが)思ったのは、死刑囚の心の安定のために「宗教」が使われているのでは?ということだった。処刑のたけに心を安定させ、落ち着いたときに処刑する。そのために宗教が使われていやしないか?それはあまりにも都合よくないか?拘置所を訪問する教誨師がいる。それ自体が悪いのではない。目的が何であるのかを整理しておかなければ、自分の意志とは無関係のところで処刑の準備に関わることになりはしまいか?

 二宮さんはクリスチャンだった。本で引用されている本を読んでも、非常に熱心な信徒さんだったことが分かる。それは自分の選択だからもちろん問題はない。彼の点訳作業を支えた人々も熱心な信徒さんだ。彼の物語をかくして読むことができるのも、このような方々のおかげだと思う。しかし、それと上記のことは違う。

 この本はかなりお薦めの書だ。買ってよかったし、読んでよかった。単純に二宮さんを美化して描いているわけではない。二宮さんが生きた拘置所での生活を可能な限り「再現」し、紡いだ物語である、と思う。死刑を受けた人々が皆、二宮さんのような拘置所生活を送るわけではない。しかし、二宮さんがそうだったように、多くの場合は死刑をなんとか回避しようとするはずだ。元刑務官の坂本さんも書いておられたが、冤罪だと思われるケースは確実にある。しかし、死刑が確定してからは、それを回避することは権力の壁が厚すぎて非常に難しい。