アメリカで死刑をみた

 今日、紹介する本は布施勇如『アメリカで死刑をみた』(現代人文社、2008年)。この本はいろんな意味で、盛り沢山の本だった。新聞記者だけあって、非常に読みやすい文章で書かれているので、結構、読み物としてすらすら読めてしまう。でも内容は考えさせるものだ。

 米国留学中に刑事政策を専攻した布施さんは、そのなかでも特に死刑問題を中心に学んだ。でも、本は、留学先の大学で学んだこと、というよりは、そこを基軸にして、死刑関係の集会や犯罪の被害者の遺族、刑務所関係者、死刑廃止論者の弁護士などから、丁寧に話を聞きとったことをルポルタージュのようにまとめている。また彼はタイトルが示しているように、実際に薬物注射による処刑を取材している。

 とても正直な印象を受ける本だ。死刑問題というのは、感情によって左右されやすいものなのかもしれない。私は、今までずっと論理的に死刑廃止を訴えようとしてきたけれど、他のテーマだと同じような理論を受け入れることができたとしても、死刑問題になるととたんにその思考を鈍らせることがある。それと感情というのは無縁ではないのかもしれない。

 被害者感情という言葉が一人歩きしたり、死刑を肯定するために、わざわざ非遺族によって被害者感情と言う言葉が容易に用いられたりする様をみていると、死刑というのは感情という蓑を着た政治問題なんだろうとも思う。

 この本を読んだときに思ったのは、誰が死刑を適用され、誰がその適用から逃れることができるのか、ということだった。この本に限らず、かなりの数の本や論者が指摘しているように、死刑判決にはレース、貧困などが大いに関係している。だけど、それだけではない。手続き上の不備から、判例上での解釈では死刑判決が出されるところ、減刑され、命が繋がるケースが実際にあったという。えん罪も多い。

 死刑肯定論者は死刑だけを特別視するな、間違いを犯すこともあるけれど、それは少数だ、といった主張をすることがある。これは日米にそれほどのはなさそうだ。これはとても危険な思想だ。死刑は何よりも貴重で取り返しがつかない命の問題・生存と死の境界線を扱っているからである。

 しかし、えん罪を根拠にする死刑反対論は、死刑廃止論のいくつかの根拠の一つにはなったとしても、最も大きなものとはならないだろう。それは、えん罪がなくなれば死刑制度に問題はない、という逆説も成り立ってしまうからだ。

 米国では実は処刑数は減っている。一方、私の足元の日本社会では死刑判決が以前よりも随分多く出されるようになり、実際に確定死刑囚に対する執行は早いスピードで続いている。どちらの社会でより問題が深刻化しようとしているのかを日本に住む私たちは考える必要があるのではないか?