あの戦争から遠く離れて:私につながる歴史をたどる旅

 毎日新聞に書評が掲載されていたので、城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』(情報センター出版局、2007年)を読んでみた。前半は「残留孤児」だった父の話。後半はその娘である久枝さんの話。前半は引き込まれるように読んだけれど、後半に入ってから、少しづつこの本に失望していった。コンセプトは悪くない。父の人生を通して考える戦後史。

 読み終わって私は、後半に少しがっかりしたような気持ちになった。どうしてなんだろう。著者の中国留学、留学先での親戚との交流や会話、留学先での戦争をめぐる議論、父の生い立ちをたどる旅。どれをとっても読ませるものなのだが、なぜかしっくりいかない。ひとつは日中戦争に対する戦後世代としての考え方が異なることなんだと思う。私自身もシンガポールに住んでいたことがあるので、華人シンガポール人と戦争の話になったことがある。シンガポールではしっかり日本の占領時代のことを教えている。私は彼女のように、その件で「攻撃的」に話しかけられたり、質問されることはなかったけれど、それなりに厳しい目で見られたこともあるし、一言厳しい口調で言われたこともある。私はそういう訴えに対してアレルギー反応を示すのではなく、やはり謙虚に応えるべきなんだと思う。自分が中国人の立場だったら、シンガポール人の立場だったら、あるいは朝鮮人の立場だったら?と思うと、彼・彼女たちの反応はむしろ自然に思えるもの。

 私たちはこの手の議論を避けては通れないんだと思う。それは私たちが加害者でありながら、そのことを無視してきたのだから。少なくともそのような政権を支持してきたのだから。責任は重い。この本から感じた違和感は、戦争責任に対する視点の薄さなんだと思う。侵略された側がどんな思いを育みながら生きてきたのか、そのことに対する思慮はあまり感じられない。

 あともう一点違和感を感じたのは、あまりにも家族に縛られすぐているということ。いや、縛られることは悪くない。彼女の家族が経験してきたことからさまざまなことを考え始めるというのは、おかしなことではないし、私自身もそうだ。この本のなかでとても怖いと思ったくだりがあった。

 「私は自分が戦争の時代に生きることを想像してみる。過去ではなく、未来のなかで。そのとき私は、何を考え行動しているのだろうか、と。私は何よりも私の「家族」のことを考えて正しく行動しているだろうか。そのとき私が感じる「正しさ」は、時代のなかで「正しさ」たり得ているだろうか・・・・・・。」

 私はこの文章を読んで、怖いと思った。正しさとは何だろう。正しく行動するということとは。時代のなかで「正しさ」とは何を指すのだろうか。非常に危険だ。ともすればナショナリズム軍国主義を支えることにもなるし、あの戦争を支えた天皇制国家大日本帝国を形成していた末端の細胞である「家族」なるものを肯定してしまうことにもなりかねないからだ。

 いろいろ批判は書いたけれど、また失望したことも書いたけれど、読んでよかったとも思っている。違和感を感じたけれど読み進めたのは、読み終わりたいと思う本であったからだとも思う。