わたしの息子はなぜイラクで死んだのですか

 最近、読みたい本を読み終わっていないのに、あれこれ本を買い込んでしまっている。火曜日に買ったのは、レオン・スミス編「わたしの息子はなぜイラクで死んだのですか:シンディ・シーハン 平和への闘い」(大月書店、2006年)と四方田犬彦パレスチナ・ナウ:戦争/映画/人間」(作品社、2006年)。「わたしの息子はなぜイラクで死んだのですか」を買うために、非常勤で教えている大学の帰りに、梅田駅のなかにある紀伊国屋書店に寄ったときに、「パレスチナ・ナウ」も目にし、つい買ってしまった。翌日に、京都でバクリさんの一人芝居を観にいけば、この本、売っているかもと思いつつも。

 シンディ・シーハンの闘いに関する本を読み始めた。いろいろなメーリングリストで彼女の活動に関する映像?を上映する案内が流れたこともあったけれど、私は私のなかでまだ彼女に対する評価が何も出来ていない。

 連れ合いが先週、家のなかで叫ぶようにどなっていた。「昔はイラクに派兵されて殺害された米兵をかわいそうに思ってきたけれど、今は奴らに対しても同情心はなくなったぞ」と。イラクであるイラク人一家が殺害されたあとのこと。彼の怒りをおさえることは私はしない。そんな立場にはないから。先週の彼の身に起きたことはつらすぎた。知り合い4人の死を一日で知ってしまった。イラク人であること。それはたとえ、現場にいなくとも、苦しみを生身の身体で体験するということだ。

 彼の叫びを聞いた後、シンディ・シーハンの闘いをもっと知りたくなった。彼女の問いである「私の息子の命を奪ったこの戦争の崇高な理由とは、いったいなんなのですか」を考えたい。いわずもがな、この「愚かな戦争」は、「愚か」だと表現した段階ですでに多くの人びとが亡くなっているという事実に私はどう向いあうのか。愚かだというのは簡単だ。でも、それは多大な犠牲の上に出てくる言葉。失われた命はどのようなことがあっても戻ってこない。一人一人の死に私(たち)は責任がある。しかし、責任はどうとれるというのか。

 さて、本を読もう。